昭和42年8月26日 朝の御理解


 何の道を極めますでも、やはり師匠と云われ先生と云われる人のそれぞれの流儀と云うものがある。その同じ例えば、流儀の中でも、又その先生その師匠の個性と云うものが強く出ておるといったような場合があるです。
 ですから、その道を極めようとするからには、やはりその先生の型と云うか、流儀と云うかそれを体得しなければならん。
 例えばここに信心の稽古に通って來る皆さんでも同じこと。私流の儀はこれだから、と云うたら信心の稽古に通って来ておるどころじゃあないのです。いうならここでは私の生き方、流儀と云うものをみんなが体得して貰わなければならん。本当のことを云うたら、教祖の神様の辿られた道とでも申しましょうか、辿られた道を私ども辿らせて頂くのが本当でございますけれども、なかなか教祖の神様の辿られた道と云うのはもうその一部だけでも体得することに容易ならぬことだと実は思うです。云うならば私が教祖の神様の御教え又は先輩先覚のあたりの先生方の流儀と云うか教祖様の在り方と云うものを今少しばかり体得し、その少しばかりの体得しておるところから、云うなら信心も分からせて貰い、そこからおかげも流れて來るとこういうようなおかげを受けておる。それで私がここで受けておるおかげと云うものを皆さんが見て下さって、そして私がそのこういう風に信心をさせて貰って、私がかくおかげを受けたと云うことを聞いて貰って、そして皆さんがそれをそれぞれの行の上に表しておいでて頂かなければならん。云うなら見て聞いて、そして行じて行かなければならん。ここんところをですね、皆さんをその見て聞いて行じておるかどうかと云うことをひとつ確かめてみなければいけません。なるほど私は信心の稽古に通っておるのじゃあない。おかげを頂きに来ておるのだというのであれば、又話は別です。ね、けれども折角信心の稽古をさして頂くのでございますから、本当にやっぱ稽古をしなければ馬鹿らしい。徳にもならなければ、力にもならない。これを何時も私が申します様に、この世は徳の舟に乗って渡らなければ人間の幸と云うものは無い。信心しておれば、幸せになると云うことじゃない。信心をして徳を受けると云うところに人間の幸せがある。 人間の幸せはいわばこの世の幸せだけではない。あの世までもつながって行く幸せが頂けると云うことを確信して、皆さんが信心の稽古をなさらなければいけない。例えて云うならば、お茶の稽古ならお茶の稽古がある。お花ならお花の稽古がある。それはなるほど、見ておるだけでも楽しいですね。尚少し云うなら、ここに三味線なら三味線の稽古をする。けいこのありよるとを聞きよるだけでも楽しい。また上手になった人の三味線をテレビならテレビ、ラジオを聞いておるだけでも楽しい。云うならここにお参りさせて貰うて、おかげを頂くと云うことだけでも有難い。けれどもそのおかげを頂くだけでなくて、おかげを頂きがら、助からせて頂きながら信心の稽古させて貰う。ならどういう稽古をさせて貰うかと云うと、なら私が大坪流というなら大坪流というものを流儀を網出しておるとするならです、その大坪流に皆さんがなりなさらなければ、おかげは受けられませんです。
 いいえ私はもうどこ流だから、もう私は自分の流儀で行くと云うたんでは、ここに通って来て稽古をすると云うたんでは稽ことにはならんです。 私共はどこどこの教会にお参りしよった。その流儀をいわばここへ持って来たところで同じ金光様の御信心でも、やはり比礼が違う。おかげが違う。だからここの流儀の御比礼、ここの流儀のおかげを頂く為には今までの信心を一辺御破算にして、私の流儀を体得しようとする意欲と云うものが必要だ。
為には、やはり私がおかげを受けておると云うことを、私がおかげを受けて行きよる姿というものを見て貰い、そのおかげがどういう様な信心から現れておるのかと云うことを聞いて貰い、そしてそれを皆さんがめいめいの生活の上に表して行じて行かなければいかん。 その流儀を体得するということを見て聞いてそして行じなければならん。そこに云うなら、私流儀のおかげが皆さんの上に現れてくる。確かにこのおかげの現れ方と云うものが同じですね、皆さんの上にくるおかげは、私流なんですね。おかげが。
昨日私こういうお取次ぎをさせて頂いた。熱心に十何年もお参りしていらっしゃる方なんですよ。云うなら私の流儀を大体は体得していらっしゃる筈の方なんです。ですからここで私の一つの流儀と云うならば、流儀の中の様々の流儀がございましょうが、その中に成行きを大事にすると云うこと。成行きを尊ぶと云うこと。めいめいの生活に様々の問題が起きたり、腹が立つことがあったり、嬉しいことがあったり、そういう一つの成行きを、信心を取り組ませて貰う、それを大事にして貰う。それを尊ばせて貰うと云う、まあおここ独特の云うなら表現で、私は皆さんに聞いて貰っておりますがね。
 成行きを大事にして行きましょうということを。ですから、その方なんかの場合なんかはですね、確かに一つの難儀の問題が起きて來ると、その難儀を難儀とされずに、これこそ神様の御神意としてここは合掌して受けて行くべきだと云うことを合点しておられる。様々な問題があるたんびに、その問題を大事に大事にして、それを一応受けきって、そこからおかげを受けておられると云う方なのです。ところが、昨日こんなことがあった。
近い内に息子さんの嫁さんを貰うことになっている。話も大体決って、この十月に結婚式を挙げようということに相方の話で決まっている訳。ところが、あの息子さんがその最近嫁さんの家に参りましたら、先方のお父さんから言われたことが、十月に式と言いよったばってん、十二月にして貰わなければ困るから、十二月に延ばして貰えんじゃろうかと話があった。そこで家に帰って来てから、ぶんぶん腹かいてから布団を敷いてから寝とる。息子が。何でそんなお前腹かいておるかと言うたら、もうもやもやした、もやもやしたちゆうちから仕事もせんげな。それがよくよく聞いてみたら、これがその結婚式の日取りが二ヶ月延びたと云うことが、腹が立っておる訳なのである。そこでお父さんも息子もやっぱせっかくしこっちも十月のつもりでおったとこへ二月も延ばされるもんじゃけん、お父さんとしてもそんなことがあるもんかと云ったような気持ちが起こった訳でなんですね。皆さんならどういう風に受けられるでしょうか。ここへんが私の流儀を体得しとかんと、パッと答えが出て来んとですよ。どうでしょうか。折角息子も云うなら、それこそ指折り数えて花嫁さんのみやげを待っているのですけん、そりゃあまあ殺生な話ではある。二ヶ月延びると云うことは。けれども何処に御神意があり、何処に神様の御都合があるやら、分かりませんのですからね。はあ、二月延ばさせて頂いたら、こういうことの為に二月延ばされてあったのだなあということが、後で分かるようなことかも分かりませんのですからね。
 そこでなるほど、それは息子に対して少しは気の毒だけれども、そういう時に待ってみれ、それがやっぱ神様の御都合ぞと、二月延ばさせて向こうがくれと云うのなら、それが御神意に違いないから、そんなら二月待たせて貰えばよかじゃあないか。こっちも準備もそれだけ出来ることだし、そりゃあ神様の御都合ぞと云うたら、ほんとそこを有難く受けて行かなければならんところじゃあないですか。そうでしょう。ね、皆さんここへんのところの流儀をですね、例えば皆さんここで稽古をなさっていらてですね、難儀に取り組み方と云うのは、私の流儀に皆さんがなっていかれるけれども、その難儀と迄はいかんでもそういう様な、いわば簡単のことの場合そりゃあ十月に決めとったんだから十月にして貰わなければ困りますよと言った様なことを言うたんではもうそこからおかげが狂ってくるです。
又その方のお届の中にですね、先日その夕飯の後に、よどだったからまんじゅうを持って来てくれたとこう云う。そしてあのお父さん私、九月一日から自動車の免許を取りたいと思うから、九月一日から自動車学校にやらせて頂こうと思いよりますと話したと云うことです。皆さんならその様に聞いた時にどのようになさいますでしょうか。やっぱりお話聞きながら、自問自答してみなければ、自分の考えが合うておる、自分の考えが違っておると云うことが分からんですよ。そういう場合に例えば、皆さんが貰われる場合、嫁さんがそういうふうに言った場合、それはよかこと思い立ったのと云うか、そげなこと止めとってくれんのと云うか、そのお父さんはこう云われたのです。 
 もううちにゃあ、息子が自動車運転なしきるから嫁さんまで自動車運転しきる必要なかばの。どうせ百姓じゃから、そう嫁ごさんが自動車の運転しなさらんで、村内女子誰も運転するおらんけんでそんな止めとってくれんのと云うこと。皆さんならどうでしょう。そのへんのことがです、そのへんの受け方がです、頂方がです、云うなら流儀なのです。そういうことが生活の中にすーすーと私流儀に出来ていかなければならん。私ならそれは良かこつ思い立ったのと言うに違いないですね。だから娘さんは折角思い立ったのを、お父さんいかんち言いなはったけんで止めならんことになる。そしてお父さんが思われたということはです、そげな女子が運転どんしよってから事故どんがあったらどうするの、ちいうようなこともいうた。さあそれから先は神様にお任せしなね。又それは心配いらんの、それから先のことは自動車の運転を体得したい、稽古したいと言いよりますから、どうぞ怪我、過ちがないようにと祈らせていただかなければならんのである。
 何時なら 息子が運転が出来なくなってです、嫁が運転の稽古をしておって呉れた免許を持っておって呉れておったから、助かったと云うことにならんとも限らんでございますから、ここんところは受けて行かなければ、そういう風に受けて行くことが私の流儀なの。そういうことは日常茶飯事中に沢山有ると云うことです。そういうこまごましいことから、私の流儀を体得して貰わねばならん。
これは先日、やっぱり娘さんの見合いがあった。ところが見合い、その娘さんの見合いですから準備用意しとかんならん。ところが向こうの方から都合が出来たからというてから二辺断わって来た。ばってん腹かくことはいらんですね。折角の用意しておったところで、どういう御都合があるかしらんのだから、どういう御都合があるやら分からんから、それを有難く受けて行かなければいかんですよ。そして今度は三度目に電話がか掛かってきた。今度はいついつ行くからと電話が掛かって来た。ところがこちらはいついつと言われる日が、娘さんが泊まりがけでよそに行かなければなないと云うことだったです。そこでどうしたならよかろうと云うことでした。それは分かりきったことではないですか。前の二辺は・・?前二辺も云うなら成就、お参りが叶うておらんのだから、今度はこちらは、こちらも無理をしてでも、行かなければならんとを止めてから、見合いを持つのが本当か。それは折角向こうも・・・?っておるから、けれどもこちらに都合があって、娘がおりませんから又の日にして下さいと云うか、皆さんどちらとられますか。
どっちが私の流儀だと思われますか。お分かりに成ると思います。
 そういう例えば、娘が泊まりがけで行かなければならないような時に、向こうが暇が出来たと云う。こういうお互い、互い違いにあってはならん。大体は。だからこれは断わるべきが本当なのです。そんところにひとっつも無理があってはならないです。流れて來るものはそれはいらないものでも、やはり受けて行こうとする態度が必要なのです。けれども流れて來よるものをこちらへ流させんと云うて、せき止めてあるものはわざわざ逃すことはいらん。そすと水はこう回って流れて行く。自分の方の都合をです、無理して取りやめて、そしてそれを待つというような不自然なことをしなくてよい。向こうもちょどよいなら、こっちもちょうどよい都合のよい日がある筈だ。いわゆるタイミングようおかげの頂ける時期がある筈だ。又の時期に又のチャンスを願ったら本当なのです、と云う様にですね、例えばこれは私が日頃言う成行きを大事にすると云うことは私流儀なのです。
 ですから、皆さんがこれがその普通で云うなら腹立つとか、歯を食いしばらんならんようなこと事の時にはやはり今の信心がもの云うてですね、そこを黙ってそのことを合掌して行くというけいこは出来ているのですけれど、只今申しました今の三つの例のような簡単なっていうか、その難儀な問題と云う程のものではないですけれどです、茶飯時に何時もあるささやかな一つの問題であってもです、それを成行きを大切にさせて頂きどうすることが本当か見極めて、それを私流儀に解決していこうとする姿勢がいるとこう思うのです。
 ここではやはり私の流儀というものを、皆さんが体得して貰わなくてはならん。それは信心の稽古に通うて来られるならば、私の流儀に、いや私流儀と云わずに私の流儀というものを体得して貰わねばならん。 そこに私流のおかげが生まれて來る。私のおかげを見ておって、ああなるほどと皆さんが合点なさるならば、一つそういう本気で稽古をなさらなければいかん。そして過去こうしておかげを頂いて居るということを、こうしてお話させてもらうのだから、その話を聞いて貰わなければならん。しかも、聞いて下さったならば、それを只今の様な問題のような場合でも私流儀に行じていって貰わなければほんとのいわば私流儀の信心の稽古をすると云うことにはならんのでございます。
 只成る程と私のおかげを見て下さるだけならば、これはいざ知らず、只その稽古をしようと云うだけでもそれはやっぱ楽しいことは楽しい。おかげを頂くと云うだけでも有難いことは有難い。けれども、おかげを頂くだけではない。ほんとに徳を受けよう、信心を頂こう、そして後におかげを頂かせて貰おうと云う様に、徳を受け信心を分からせて貰うと云うなら私の流儀を見、聞き行じて貰わなければなりません。
 そこで私がその言葉には出さないところ、ね、云うならば私を本当に私の信心を見習うて頂くと云うこと。私は手本になるような信心をしておる訳ではないのでございますけれども、色んな問題が起こったところに、あ、ここならば、こういう時にです、親先生ならどういう風にこれを受けられるであろうかと、どうこれに処して行かれるだろうかというようなことは思うてみなければいけません。そして先生ならこうなさるに違いないと云う道を辿らせて頂くと云うことが、私信心の稽古をさせて頂くことだと思うのです。
流儀は私が申しますそのことだけじゃございません。やはり私も非常に個性の強い男でございますからここではやはり個性の強い信心が打ち出されています。
最近私はしきりにお道の書物なんかをませてもらったり、偉い先生方の話を聞かせてもらってから思うことはですね、本当の金光教の信心の匂いというようなものがなくなったことです。もうさらっとなったことですね。当たり障りのないもうさらっとしたその在り方、だからおかげもさらっとしてから、おかげですね、何かこう少しどぎついような、いわゆるそばにおれば信心の匂いがプンプわンするよううな、私はそういうようなものが、私は現在の金光教には欠けてきた。そういう意味で合楽はとにかく合楽臭というものがあるようです。信心の体臭というものが、いわゆる信心の匂いがプンプンする。
そのくらいなですね、私はおかげを頂かなければ本当の生き生きとしたおかげは生まれないと思うです。ね、信心の匂いがこの頃薄れてきた。
信心の匂いがする位な、言うなら皆さんの家庭でもです、大坪の匂いがプンプンするような、大坪の流儀が家庭の中にいっぱいになるような、おかげを頂いて頂きたいとこう思うのです。ね、どうぞなんの道でも同じなんだ。ね、その人その人のやはり流儀というのがございます。その師匠と言われ先生と言れる人の流儀を体得しようとするとするならその先生の教えられることを行じて行く、また慣れていくのが必要でございます。
そうしていきよってもです、そのような個性がある、そうしていきよってもやはり私流の中にまた原流が生まれてくるであろう、福島の式がまたあるだろう。
その中に教祖の神様の御信心の中に桂先生の流儀が生まれ、石橋先生のご流儀があり、ね、荒巻先生の御流儀がまたある。それをまた私どもが分からしてもらっていこうとしてそれを体得さして頂いてもうここには大坪臭というものが生まれてきておる。そこに私が頂いておるようなおかげを頂けてくるのでございます。
ほんとに例えば親先生と私のことを言うてくださる方たちはですね、ほんとにもう親と子ですから似らなければ嘘なんです。
ね、そしてその似たようなおかげが、似たような信心が生まれてくる。ね、似ても似つかん、といったような例えば信心では私流のおかげにはつながってこないと思うですね。どうぞ。